こんにちは
今日も私のブログを訪ねて下さってありがとうございます。
本日はジャズ詩解説ではなく、先日の Beyond the Sea(=La Mer)から派生した
ボビー・ダーリンの生涯
についてお話したいと思います。
37歳という若さでこの世を去った逸材の苦悩に満ちた人生と、それに立ち向かっていった彼のタフなスピリットをぜひ知って下さい。
きっと今まで聞いていた Beyond the Sea が違って聞こえると思います。
誕生~デビュー
1936年5月14日、ウォールデン・ロバート・カッソットとして生まれたボビーの住むエリアはハーレムやサウス・ブロンクスの貧しい環境でした。
貧しいばかりではなく、不幸なことにボビーは幼い頃にリウマチ熱に罹り、それが心臓にダメージを与え生涯にわたって彼を苦しめることになったのです。
そんな不幸に見舞われながらも、彼はこれらの困難を克服するために並外れた努力をしました。
『自分の命はそう長くないだろう』と知っていた彼は、ショービジネスの世界で成功したいという強烈な欲望に駆り立てられました。後に”生意気”などと言われたのも、その必死さが野心的な態度になって表れた証拠でしょう。
カレッジを卒業後、ニューヨークでデモ作家、デモ歌手として活動を始めたボビーは徐々に注目を浴びるようになり、1958年にはスタンダートソングを収録したアルバム、『ザッツ・オール』をリリースしました。
このアルバムには
Mack the Knife(マック・ザ・ナイフ)⇚私の歌詞解説ブログへ
が収録されており、これがグラミー賞最優秀新人賞を獲得します。
ボビーの Mack the Knife はビルボードチャートで9週間連続1位となり、歴史上最も売れたレコードの1つとなりました。
Mack the Knife シングル盤。
また、ボビー・ダーリンは、シングルレコードとアルバムの間のギャップを埋めることに成功し(ってことはそれまでの音楽シーンでは、シングル盤のヒットとアルバムのヒットはそうリンクしていなかったということかも?)、ティーンエージャーと大人の両方にアピールする作品を作ることに成功した最初の若手アーティストだったのです。
実力派スーパーアイドルと言って良いのではないでしょうか。
23歳からのライブ活動の成功
ボビーは23歳でラスベガスのショーの世界に登場し、様々なナイトクラブでのキャリアをスタートさせます。
ラスベガスのフラミンゴ、サンズ、ヒルトン、ロサンゼルスのクローイースター、NYのコパカバーナなどの名門クラブで多くの公演を行いました。
ついでに申しますと、バリー・マニロウのヒット曲「コパカバーナ」に出てくるショーガールの Rola は
ブラジルのコパカバーナビーチあたりにいる現地の女の子だと思っていたのですが、これ、NYのクラブの事だったのな!!それで合点がいったわ。
さて、話は戻りましてボビーですが、
これらのナイトクラブのショーで彼は単なる歌だけではなく物真似を披露したり、様々な楽器を演奏したりとそのステージは常に満員の大人気。観客動員記録を更新するまでになったのです。
この彼の華やかな活躍は37歳で亡くなる直前まで続きました。
歌手以外の顔
多才なボビー・ダーリンは歌手以外のキャリアも成功させています。
ここではその4つをご紹介したいと思います。
俳優
顔を見ればもうイケメンだったことは明らかなのですが、
なんと13本もの映画に出演しています。中でも『キャプテン・ニューマン』ではその優れた演技によってアカデミー賞にノミネートされ、フランスの映画批評家賞で最優秀男優賞を受賞しています。
右端がボビー・ダーリン。
ほかにもゴールデングローブ賞の最優秀新人男優賞もしており、テレビの世界でも自身のショー番組を持つほどの人気でした。
作曲家
また、ボビーはすぐれたコンポーザーとしても腕を振るいました。
上記の自身の出演映画の音楽を担当したばかりでなく、フォークやカントリー音楽も手掛けました。
そのマルチなスタイルの融合は独自のスタイルを生み出し、ボビーはさらなる成功を掴みます。
それにしても…
ここまで書いていて思うのは「こんだけすごい人なのに日本ではほとんど人気ないのはなぜ(´・ω・)?」という点。
顔はいいし、歌はうまいし、演技も素晴らしくて、レコードセールスは記録的。なのに??
コレ思うに、
① 超・スーパースターの影に霞んだ
プレスリーとビートルズが世界的な人気を博していた頃なので目立たなかった。
② 多才がゆえに…
ボビーはジャズにポップスにロックにカントリーに映画音楽に…と海老名SAの海鮮丼のように“芸の宝石箱”すぎたというのはあります。
日本ではアーティストが一貫したイメージを持つのが一般的に好まれた、ということがあるので(らしいです)その多才さが逆にあかんかった。
なんていうのが理由かもしれません。
さて、では再び「その他のボビーの顔」に戻りましょう。まだあるんです。
ショービジネスの裏方
完璧を追求する性格ゆえか、表舞台のみならず裏への関わり方も真剣で熱心だったボビーは、音楽出版ビジネスを所有し、また、様々なアーティストのサポートも行っていました。
ハートファンド大使
ハートファンドとは「アメリカ心臓協会」の活動で、ボビーは大使として長くこれに関わり続けました。
この他にも多くの慈善事業にも継続的に貢献し、死後はピアノなどの所有物を施設に寄付しています。
また、自身の遺志によって、UCLAに献体も行いました。子供のころからの病気体験がこういったポリシーを育てたのだろう事は想像に難くありません。
複雑な私生活
そんなボビーの私生活は平坦なものではありませんでした。まぁ、ここまで短期間に色々なことを成した人生なんだから平穏な家庭を持つのは難しかっただろうとは思いますが。。
それでもまぁ、最初のほうは良かった。
24歳の時に、映画で共演した女優のサンドラ・ディーと結婚し、男の子にも恵まれました。
しかし7年後に離婚。
その6年後に秘書と再婚を果たしますが、死の直前に離婚。これは死の悲しみを妻に味わわせないためだったと言われています。
2度の離婚という出来事もまぁ残念ではありますが、もっとえげつない不幸が彼を襲いました。
それは・・・・
姉と信じていたニーナが実は生みの母だった
という事実( ゚Д゚)!!
そして母だと信じていた女性はおばあちゃんだった、と。
これきついわ。。
日本にもこんな唄があります。
『人にきかれりゃお前のことを
年の離れた妹と 作り笑顔で答える私~』(花街の母)
子供がいる、とは言えない芸者の母の辛さを歌った歌。
相当の事情があったのでしょうがきついわ。。
実際、この体験はかなりのダメージとしてボビーの残りの人生に大きな影響を与えたのでした。
ボビーの息子ドッドの手による本、“Dream Lovers” に詳しく書かれていると思いますので、気になる方は(って書いてる私が一等気になってるわ!)読んでみて下さい。
37歳、若すぎる死
こうして様々な局面を乗り越えて、ファンのために全力を尽くし続けたボビーでしたが、1973年12月20日、2度目の心臓手術の後に37歳の若さで亡くなりました。
政界への進出も視野に入れていたボビーでしたが、その夢は果たせずに生涯の幕を閉じたのです。
彼の出演した映画のごとくドラマチックな人生を送ったボビー・ダーリン。
彼は「25歳になるまでに伝説になりたい」と志し、多くのインタビューでもそう語っていたそうです。
自身の短い人生を悟っていた故の並外れた努力をもって、記録的な速さで目標を達成し続け、そのために受けた「生意気」といった評価にも負けることなくまさに伝説となったのです。
こんなボビー・ダーリンの生涯に魅せられた俳優のケヴィン・スペイシーは、彼の生涯を演じることを熱望していましたが、それは叶い、「ビヨンド the シー 夢見るように歌えば」という映画になっています。
以上、駆け足で辿ってきたボビー・ダーリンの生涯でした。
その短い人生においで『人は多くの試練に耐え続けながらも人生の目標を達成することができる』、と証明したボビー・ダーリンのメッセージを是非受け止めて下さい。
Beyond the Sea を聞きながら…
あ、あと、
花街の母もよかったら。泣けます。
See you next time!